長期供用性良好な舗装

中央道府中舗装工事(中央道 調布 IC~日野橋間 延長 11.4km の施工体験)


本工事は 1967 年(昭和 42 年)の施工である。1992 年「長期供用性良好な舗装」として 日本道路公団創立 30 周年記念事業で総裁感謝状が贈られた。施工後 25 年経過したにも拘わらず切削オーバーレイ等の修繕もなく技術力の高さが評価されたのです。因みに、舗装構造設計断面などが同じ隣接工区では、その時既に流動現象( わだち掘れ) で6 回の切削オーバーレイ工事を実施していた。それを日本道路公団八王子管理局の維持管理記録台帳で確認した。いまここで、なぜこのような舗装ができたのか記憶を辿ってみたい。

結論から先に述べれば、アスファルト混合物( アスコン) の配合設計に当時の技術には無かった「容積配合設計法」の考え方を採用したことであると断定しても過言ではないと思う。その理由は砕石・砂等の骨材配合において
「最終 VMA」の存在を想定した考え方である。日本の高速道路建設は 1959年の名神高速道路山科試験工区の施工
(旧日本鋪道㈱ 現㈱NIPPO)から始まった。初期の舗装ではクラック( ひびわれ) が入り道路公団技術陣はアスファルト量が少なかったと判断されたようである。そこで、中央道ではアスファルト量を多量にし 6.5% 以上と特記仕様書で定めてあった。当時はマーシャル安定度試験法の全盛時代であり、高安定度が期待されるよう多量のアスファルト量とすることが良いとされていたようである。反面、流動現象は避けられないことでもあった。アスファルト量 6.5%以上はあまりにも多量で当時としては常識的に考えられない量であった。そこで、公団側とアスファルト量を減じて欲しいと交渉したが認められなかった。

追記: 公団側との打ち合わせ時、マーシャル試験は空港滑走路から生まれたこと(「マーシャル安定度試験法余談」本ホームページ「舗装のはなし」に掲載)、羽田空港 C ランウエイ工事の経験などを話し、わだち掘れになると主張したら、逆鱗に触れてしまった。高速道路建設においてマーシャル全盛時代に半ばそれを否定し、方針に逆らうのは生意気な発言であり失礼であった。陳謝お詫び申し上げ暴言を許して頂いた。この一件から多量のアスファルト量とすることを真剣に考えるようになった。後の話だが、このような接触がなければ、切削オーバーレイを6 回も行なっていた隣接工区と同じような舗装になっていたと思う。さらに少々付け加えるならば、この一件により私の当時の若気の生き方に変化をもたらした事件であり、その後の人生に大きく影響しているように思うのである。

そこで試行錯誤の結果、下記の方法を考えてみた。多量のアスファルト量として流動現象を抑えるためには、合成骨材のすき間である骨材間隙率( VMA: Voids in MineralAggregates) を大きくしてアスファルトを骨材のすき間に収容し、骨材の骨格構造( スケルトン:Skeleton)を形成するようにしなければならないと考えた訳です。今考えてみると「最終 VMA」の存在を想定した「容積配合設計」の考え方であったと思います。これは当時の「開粒度 As 混合物」(Open Gradation:舗装要綱に記載、現在の排水性 As 混合物に類似)を参考にした発想でした。As 混合物を顕微鏡で 100 倍程度に拡大して見ると石粉の粒径( 0.075mm) がパチンコ玉相当に見える。この粒径の位置で開粒型の粒度を想定すれば骨材間隙の中にアスファルトを十分収容できると考えた訳です。単純な発想でした。

追記:本舗装の表彰があったある時期から、「パチンコ玉の理論」として酒席の場などで話題とするが、いつも冗談ばなしになってしまったことがある。この話とは、いま飲んでいるこのカップにパチンコ玉を入れる、同じカップに仁丹粒を入れる、その両方に酒を注ぐとどちらの方が多く入るかと云うものである。粗い方が多く入ると言った人が多かったように思う――。答えは、理論的には両者とも同じ( むしろ逆)であり昔から「相似の理論( Similarity theory)」として古書に書いてある。但し、粒径が更に小さくなると粒子間接触点数が多くなる( パッキング理論: 最上武雄)ので小粒径の方が VMA( 骨材間隙率)は大きくなる。冗談ばなしとして終わるのだが、実はここに間隙の考察について重要なヒントが在るのだ。カップに入る酒の量は粒々のすき間に入るのでそれは間隙量である。それが同じと云うことは粒状体の粒径に関係なく間隙率は同じとなる。これらのことがその後に「骨材間隙論」に発展して行くのである。(例えば、6 号砕石と7 号砕石の単位体積質量は近似的には同じと言える。正確ではないがこのような考え方に発展するのである。)

追記:当時は常設のアスコン製造工場は無く、現場にプラントを仮設して製造した( 施工時写真)。アスコンの価格積算方法はアスコン1 ㌧当たり何円と云うものではなく、アスコンの材料費のうちの「アスファルト」分だけは高価なこともあり別計算・別検収となっていた。例えば、アスコン 500 ㌧生産すると、アスファルト量 6.5% として 32.5 ㌧となり代金が支払われる。この混合量の許容誤差範囲は±0.3%( イールド値と云った)となっており約±100kg

となる。これは非常に厳しい規格です。検収はアスファルトのタンクローリーの入荷伝票とプラントケットル( タンク)の残量を検尺( けんじゃく)し実使用量を毎日報告すると云うもので、がんじがらめの管理でした。このようなことをなぜ書くのか?―――。

実は、わだち掘れをさけるためアスファルト量を少しでも減らしたいと云う気持ちがありました。このような状況で監督員の検収も厳しくどうにもならなかったことを述べたかったというわけです。ですからこのアスコンのアスファルト量は確かに 6.5% 入っています。

合成骨材間隙率(VMA)を大きくするため 0.075mm 通過率を減らさなければならない。そのために石粉を減量する、スクリーニングスの水洗い納入、プラントダストの未混入などの対策を行った。ところが、このような対策を行うと、フィラービチュウメン量( アスファルトと石粉の混合物)が少なくなるためマーシャル安定度が低下する。これは公団の方針に反するが、説明を繰り返して納得させた経緯がある。非常に良い出来栄えで平坦性なども抜群に良かった舗装であったが、安定度が低いと云う単なる理由で優良工事にならなかったのは残念であった。

工事施工について若干触れてみたい。高速道路で用いる施工機械については進歩の段階にあり、現在と比べればまだ十分なものではなかったが、舗装建設各社が整備を競そっていた( リース会社はなかった)。アスファルトプラントはバーバーグリーン社製 100 屯コンテニュアスプラントであったが公団側の評判は良くなかった。主流はバッチプラントであったからだ。しかし、単品種・多量のアスコン製造には品質の均一性などの点で優れており、良好な舗装ができた要因の一つと思う。施工機械のなかで特に注目すべきは、米国バーバーグリーン社製 SA41 型アスファルトフィニッシャーである。スクリードオートマテイックコントロールを備え抜群の平坦性が確保できた。本機を輸入し本線は2機雁行でホットジョイント施工であった。これも良好な舗装ができた要因の一つと思っている。

ここで、当時の施工写真を紹介する。( 写真提供: 根岸一人氏、本工事施工に従事)

「古くなって色あせた写真には不思議な優しさが宿る。そこに“時間”が焼き込まれているからだろう。写真も遠くなるほど柔らかい色彩と思い出をかもしだすものらしい。」

国立府中 IC 建設基地 プラントサイト (円形部) 国立府中 IC ランプ舗設状況 (1967 年)

調布 IC 国道20号線取付 近辺都市化進展状況 調布 IC ランプ付近舗設状況 (1967 年)

本工事は一年間の施工で完成 1967 年 11 月に供用開始された。それから 25年余の経過後に日本道路公団から認められたのである。この表彰には一瞬疑った思い出もあるが、ほんとうに驚きであり青天の霹靂であった。少々時間の経過があり冷静に思いをめぐらせるようになった。施工当時を振り返ってみて、当時の発想の考え方は間違ってなかったとあらためて思ったのである。その後この表彰を契機としてアスファルト混合物について研究を重ねるきっかけとなった。現在でも「容積配合設計」のプログラム化に勉めているところである。( 中央道施工記録として:「長期間供用性の良好な舗装」,舗装誌,Vol.28,No.11,(1993.11)、ホームページ参考文献に掲載)

中央道施工 関連年表

中央道工事に関しさらに追記しておきたいことがある。それは、米国のアスファルト舗装に関する各プロジェクトの時期と本工事の施工時期とその関連およびその意義である。荒廃したアメリカを再生すべく立ち上げたプロジェクトAASHTO の発表は 1962 年であった。その時すでにマーシャル安定度試験法は全米に普及していた。中央道の施工・供用開始は 1967 年、SHRP-Superpave の発表は 1994 年であり、それらの時期の前後関係である。

これら時期の関係から、中央道の路盤構造については AASHTO の等値換算係数による舗装厚指数の参考設計値は示さていた。当時まだ十分な理解はしていなかったが、まもなくアスファルト舗装要綱に Ta 法として採用されることとなる。だが、SHRP はまだ発表されていない。1994 年 SHRP が発表され「容積配合設計:Volumetric Mix Design」が提起される。ここで一方、中央道施工時( 1967 年)において、すでに「容積配合設計」的考え方で施工していたのである。この意義は大きく評価されて良いのではないかと思う。

SHRP 計画では 10 年余の歳月と多額の費用をかけたが、中央道では試験施工的な追加費用をかけず、SHRP 計画以前から実路試験を行っていたと解釈することができるのではないでしょうか。さらに「容積配合設計」の実現を目指していたことになるのではないでしょうか。中央道舗装の長期供用性良好な舗装ができたのは決して偶然ではなく「容積配合設計」を理論的に裏付けた成果であったと思うのであります。

さらに付け加えるならば、容積配合設計の究極の目標は如何にして合成骨材の「最終 VMA」を把握するかにある。この目的のため SHRP 計画ではジャイレトリコンパクタ( SGC: SHRP gyratory compactor、右写真) を用いている。私は中央道の成果を確認して以来、合成骨材の粒度から数学的に「最終 VMA」を求めることができないかを研究してきた。実験などを加えながら約 10 年の研究成果として合成骨材間隙率の計算方程式を解明・誘導し土木学会に発表した。そしてこの「容積配合設計法」を論文としたのである。(「骨材間隙率が加熱アスファルト混合物の基本的性質に及ぼす影響に関する研究」、土木学会論文集 No.648/V-47,191-202,2000.5、 ホームページ参考文献に掲載 )

文責 郡司保雄 ygunji@jcom.home.ne.jp)

余談:

中央道工事の施工は古いものであるが、現在に至っても関連がある話しを余談してみる。最近「多摩ニュウータウン」の建物や住環境等が古くなり新聞等で再開発の報道がなされている。中央道の施工は 1967 年(昭和 42 年)であることは既に述べたが、このニュウータウンが開発された敷地と中央道とは深い関係にある。ニュウータウンの敷地となった多摩丘陵は稲城砂層と言う砂山で、この砂山の山砂を中央道工事に利用したのである。その山砂を採取した跡地を平らにならしニュウータウンができたのは 45 年前のことになる。そのニュウータウンが今ではオールドタウンになってしまったほど中央道工事の施工は古い話しというわけである。

建設工事で最も重要な要件は建設資材の調達であるが、ローカル材としてこの山砂を利用した設計はすばらしい発想であった。路体の盛土工事をはじめ鋪装体の路盤工事にもこの山砂を利用した。下層路盤工はこの山砂にセメントを混合したソイルセメント工法であり大規模ソイルプラントを設置した。その場所は連光寺と云い当時「アパッチ砦」と言っていたが、まさに西部劇映画に出てくるような茫茫とした眺めであった。この工法で強固な路盤ができたのは成功であり、中央道の「長期供用性良好な舗装」ができた要因の一つであったと思っている。この余談はニュウータウンの関連のとおり古い舗装であることを言いたいこと、山砂でも路盤工ができ良い舗装ができることを言いたかったのである。

新日本製鐵君津製鉄所道路工事を振り返って

新日本製鐵君津製鉄所道路工事を振り返って

元君津工事所長 郡司 保雄

1.君津工事の概要

昭和42年11月(1967 年)中央高速道路府中舗装工事が完成・供用開始し、一息ついたある日の午後、湊東京支店長が現場に来られました。工事所長と何やら話しをしておりましたので、私がそれは何の話ですかと訪ねたら「キミツ(機密)だよ」と言われたので私はその場を離れました。機密の話ではまずいと思ったからです。私は次に予定されていた中央道上野原工事の現場事務所やプラントの仮設場所等を調査し施工計画書の作成を急いでいました。

命令が出た訳ではありませんがうわさ話が聞こえてきたのは間もなくでした。そして、あの時のキミツの話の取り違いに気づきました。それは「君津工事」のことだったのです。その後突然、武田川東京支店工事課長から電話があり、12月24日8時20分両国発列車4両目に乗車せよとの命令がきました。高速道路は本社工事であり私は東京支店からの応援なので別な筋からの命令と感じましたが既に決まっていたようです。私もその時31歳で子供も小さくクリスマスイブを楽しみにしていましたがそのようなことはお構いなしでした。当時は総てこのような調子で社員が移動していたように思います。このような経緯で君津工事に関係する訳ですが、後日新日鉄の道路工事担当主任(35歳) に聞いた話では「私(担当主任)より若い人を所長にお願いしますと条件をつけた」とのことでした。それにしても当時の日鋪としては私のような若輩を担当者とすることに相当の決断が必要であったことと思います。当時お世話になりました湊東京支店長、武田川工事課長のご両氏ともすでに他界されました。ご冥福をお祈りいたします。

東京から君津に行く内房線も現在は電化されて東京から1時間程度ですが、当時は両国駅から蒸気機関車で2時間半かかって木更津駅に下車、車で現場に向かいました。車窓から建設現場が見えるようになるとその規模の大きさに驚きました。東京湾に突き出た先端は霞んで見えない程広大なのです。早速建設本部に出向き挨拶しました。その規模の大きさもありますが、所員は慌ただしく動きまわっておりグループ長には威厳があり役所にきたような感じで心細い思いでした。ほんとうにこの大工事を纏め上げることが出来るのだろうか不安な思いでした。


工場敷地は幅約3km、奥行き約2km、面積約600万m2の東京湾君津海岸の埋 め立て地で、ここに製鉄製鋼一貫工場を建設するものです。当初予算は1400億円と聞きました。大手ゼネコンを含め24社が建設部落を形成しその一角に当社の仮設工事も始まっていました。最終的には当社でも250人程度の宿泊施設がありましたが、建設部落全体では約1万人と云われていました。

日本の経済は昭和40年代に入ると「三白(米、塩、砂糖、粉、綿、紙などの内の三種を云う)」といわれた時代が過ぎ、重厚長大の時代に入ります。その代表的なものが鉄そのものであり「鉄は国家なり」と云われていました。製鉄各社は、八幡製鉄㈱が堺、君津製鉄所、富士製鉄㈱が大分、名古屋製鉄所、住友金属工業㈱が鹿島製鉄所、川崎製鉄㈱が水島製鉄所、日本鋼管が扇島にという具合に、それぞれ競って新鋭製鉄所の建設に着手していました。因みに、君津製鉄所の建設期間中に八幡製鉄㈱と富士製鉄㈱が合併し新日本製鉄㈱が誕生しましたので新日鉄君津製鉄所となりました。まさに鉄は国家なりであり国家的大事業であったと思います。日本の製鉄業界は年間粗鋼生産量8000万屯を目標としていました。君津製鉄所の当初の目標は500万屯でしたから、社員全員が500の数字を書いた赤いワッペンを胸に着けていました。話が若干それますが、全国のアスコン総生産量はほぼ同量の8000万屯になろうとしていたと思います。現在では粗鋼生産量は1億15
00万トンとなり中国に次いで世界第2位になりましたが、アスファルト合材は約半分程度ですからアスコンの生産量の減少はひどいものです。ここで参考までに述べると、日本の人口に対する粗鋼生産量は一人当たり約1屯ですが、アスコンは一人当たり約0.5屯となります。この0.5屯をその地区の人口に掛け算するとその地区の年間アスコン使用量(製造量)の概算になると当時から教えられていました。試算して見て下さい。

製鉄所の機能は鉄鉱石、石灰、コークスを溶鉱炉に投入し、そこに酸素を吹き込んで溶かし銑鉄を製造することが最初の工程であることはご存知のことと思います。次にその銑鉄(粗鋼)を転炉工場に運んで精錬しスラブと称する畳み板状の鉄の塊にします。これを圧延工場等に運んでそれぞれの目的に合った鉄板や鋼材にします。何でこのようなことを書くのかと云うと、実は重い鉄の塊(インゴット)を圧延工場等に運搬するのに十分耐え得る道路が必要になると云うことです。これは当然のことですが、今までの製鉄所はこれらの重量物の運搬にレール軌道を使っていました。ですから、官営八幡製鉄所時代から、戸畑製鉄所などでは各工場間は線路で繋がっているので、製鉄所の構内は線路ばかりが目に付きました。君津製鉄所ではこれを道路に変えた訳ですから道路は最も重要な構造物の一つであり重要な設備だったのです。建設本部ではこの道路建設に今迄以上に注目していたのです。  それは製鉄所の建設コストに係わることで、日鋪が最初に受注した工事は本道路工事20万m2、約5億円でしたから街渠などの付帯工事を含めて2500円/ m2となります。この単価で出来れば線路を敷設するのとでは比較にならない程安価なのです。結果として、君津製鉄所の道路輸送への変更は、建設費のコストダウンに大きく寄与したことは確かでしょう。

最初に本道路工事20万m 2、約5億円で受注したことを述べました。どこまでを第一期工事と云うか何期工事と云うかその区切りは定かではありませんが、本道路から各工場や各施設への取付け道路として、工場やその施設単位の取付け道路予算があり次から次へと舗装工事が発注されるのです。大凡3年間で道路舗装工事面積約60万m2、石炭ヤードなどのヤード舗装工事面積約30万m2、概算金額30億円以上となりました。これは中央高速道路の受注金額が約7億円でしたから高速道路約5工事分に相当する特大の舗装工事となったのです。そして第一期工事の敷地面積が600万m 2ですから、道路舗装工事面積が約10%、ヤード舗装工事面積が約5%、敷地面積に対して計15%、90万m 2の面積を舗装したことになります。

以上が君津工事の概要ですが、以下、工事施工にあたり苦労した点や以後参考となりそうなことなどを述べてみたいと思います。個別に述べる内容に順序が前後するところがありますがご了承下さい。

2.舗装断面の設計・技術の日舗・技術の先取り

従来用いられていたアスファルト舗装要綱の舗装断面設計法は俗に云う CBR 設計法でありました。非常に解り難く不明瞭で民間工事では得意先に対して説得力に欠けるところがありました。ここで、「技術の日鋪」の本領発揮となる事実を述べなければなりません。

米国では荒廃したアメリカの道路網を再生すべく( 当時「 荒廃したアメリカ」 (America in ruins)という本が出版され評判となっていました。)多額の費用を投じて道路構築技術の開発が進められ、その成果として AASHTO 道路試験の成果が発表されていました。この試験の成果は主に舗装体構造の強度に関する研究開発で、いわゆる等値換算係数の考え方に代表されています。 今では、舗装の断面設計と云えばTa 法を知らない舗装技術者はいないと思いますが、Ta 法は等値換算係数の考え方であり当時の最先端の技術だったのです。この技術を君津工事に採用した経緯を述べたいと思います。

前段で書いた中央高速道路府中舗装工事を設計した時期は、昭和41年でしたからアスファルト舗装要綱にTa 法はまだ採用されていません。しかし、参考資料として AASHTO の等値換算係数による計算値が示されていました。ですから、私は等値換算係数の概念およびその考え方の概要は知っていました。君津工事に来て仕事を始めたその時、舗装要綱の断面設計法の考え方が変わり近いうちに舗装要綱改定版が出版されるようだとの話しを上司から聞いたのです。私はピンとくるものを感じました。早速本社に相談し出版される前の舗装要綱の原稿を入手したのです。当然、日鋪には舗装要綱改定委員会のメンバーがいる筈であることは知っており、その方と相談すると既に印刷段階に入っているとのことだったのです。入手した原稿を見たところ舗装要綱改定の要旨は正にTa 法による舗装断面の設計法だったのです。これを利用しない手は無いと考え、俄か勉強の知識で建設本部に持ち込み説明したところ、この設計法の考え方を理解され、たいへん気に入った様子で早速採用することが決定されたのです。

君津の舗装工事にTa 法を採用した時間的経緯を詳述すると、アスファルト舗装要綱にTa 法が採用・記載された昭和42年改定版は昭和42年12月30日印刷発行となっています。そして舗装要綱が手元に届いたのは4月頃だったと思います。その後、一般に普及して行くのには半年程度の期間を要するので、他社が知らないこの期間が営業的に有利に展開して行った重要なポイントであったように思います。また、技術の先取りとはまさにこの様なことを云うのであって「技術の日鋪」の実力を遺憾なく発揮した出来事だったと思うのであります。

道路舗装面積は60万 m2 になりましたが、舗装断面は全部同じではありません。本道路および本道路から各工場・施設への取付け道路など荷重条件が異なります。そこで、舗装断面の基本パターンを改定舗装要綱の原案を参考に5断面(A、B、
C、D、E)に統一し、断面構成とその単価を設定して、本道路担当者および各工場・施設担当者と打ち合わせながら交通条件に合った適切な断面を選択できるようにしました。厚板工場(圧延工場の一つ)の一例を述べると、工場建屋延長約12
00mで取付け道路面積約3万 m2 ありましたが5断面総てを採用しています。出入り口の隅切りカーブを、出入りする車両の軌跡に併せて設計し、それを図面化して面積を計算し、それぞれの断面単価を乗じて金額を簡単に算出できるようにしました。これらの方法は今から思えば当然のことですが、建設本部から非常にほめられ、「技術の日鋪」の面目躍如と云ったところでした。これも Ta 法を採用したから可能だったのです。

断面設計で追記すると、アスファルト舗装要綱原案にはE断面はありませんでしたが、120屯トレーラのような超重量物運搬の台車が走行する舗装断面をE断面としました。これは航空機の車輪のようにタイヤ本数の多い群荷重の計算方法

(Corps of Engineers=米軍技術局)を参考に本社技術部の指導のもと断面設計を行いました。これも日鋪だからできたと思っています。

3.資材調達

千葉県の地形は平坦で高い山が無く、房総半島に小高い丘のような山はあるもののアスコン用砕石を生産できるような岩質の山が無い県です。当社の千葉工場の砕石は栃木県の葛生産か埼玉県の秩父産のものを今でも使用しています。これを君津まで運ぶとさらに遠距離になり、採算のとれるような納入単価にはならないのです。そこで新設された新日鉄の岸壁の無償使用を交渉し、船物砕石をガット船で運んで表層アスコンに使用することとしました。東北地方の太平洋岸の気仙沼、大船渡、西伊豆の安良里、更に山口県の日鉄等から海路を運んで量の確保に努めました。

一方、砕石が無い房総半島では、古くからコンクリートニ次製品は山砂利コンクリートで製造されていることをニ次製品納入業者から聞きました。その時私は、新入社員のころ北海道旭川で石狩川の砂利をアスコンに使用したことを思い出し、この山砂利がアスベースアスコンに使えるかどうかを試験してみたらと思い、試験したところマーシャル安定度350kgf が得られ、Ta= 0.8として上層路盤に十分使えることが判明しました。ところが、この山砂利は国有地内(鬼泪山)にあり民間ベースで勝手に採掘できないものだったのです。年間何回かの公開入札がありコンクリート業者はこの制度で払い下げていたのです。早速、会社として農林省営林局に働きかけ、公開入札の回数を増やして貰うようお願いし認可されたのです。営林局でも収入が増えることなので歓迎だったようです。この様にして多量の山砂利を安価で購入することが可能になり20万屯以上は使ったと思います。そして、この山砂利が無かったら赤字工事は避けられなかったと今でも思っています。本当にこの山砂利アスコンには助けられました。これこそがローカル材の有効利用という舗装技術の真髄だと思うのです。誠に有難いことでした。この山砂利アスコンの採用も等値換算係数の考え方がベースに無ければ難しかったような気がします。アスファルト安定処理路盤(アスベース)工法も、日本では東名高速と中央道で初めて日本に登場してきた工法であり、私は直前に従事した中央道府中工事でこれを体験できていたこともラッキーだったと思っています。コンクリート用の主骨材は八幡製鉄の系列会社である㈱鉄源が九州から船で運んできた鉱宰(スラグ)を使用してい
ましたが、この山砂利の入札にも後に鉄源が参加してきたことから山砂利はコンクリート用にも使用されていたようです。

このように、砕石の無い千葉県ですが山砂は豊富にあります。ここで、前段で述べた中央高速道路府中舗装工事の舗装断面で下層路盤工(Subbase course)は山砂セメント処理(プラント混合ソイルセメント)が採用されていた事例を生かし、この工法を君津工事でも採用することを検討した結果、路床工入れ換え用山砂にセメント量3% でプラント混合すれば下層路盤工に十分使えることが判明しました。中央道ではパグミルミキサーを使用しましたが、ドラムミキサーでも十分だと判断しました。パグミルだと生産量が追いつかないと判断したからです。

余談ではありますが、ソイルセメントには当時から二通りの考え方があり、一つは一軸圧縮強度30kgf/ cm2 として上層路盤に使用する「ソイルセメント」があります。ここでは、山砂をセメント処理して修正CBR30以上とした「修正ソイルセメント」とし、Ta= 0.25として下層路盤に使用することとしました。前述した5断面の設計は、表層アスコン、上層路盤工(山砂利アスベースコース)、下層路盤工(プラント混合ソイルセメントサブベース)のそれぞれの層厚を変えて組み合わせた断面構成とし、非常に簡明な解りやすい方法となったのです。砕石は表層アスコンには用いましたが、路盤工には砕石は用いていません。砕石が無くても路盤工が出来たのです。

話はそれますが、このセメント処理山砂(修正ソイルセメント)は非常に有効な路盤材でありました。開削調査した結果、この修正ソイルセメントは版構造の層となりツルハシが刺さらない程硬化していたのです。後になって、千葉県土木部に技術営業した結果、県土木に設計採用されることになり、日鋪は山砂生産業者の採取場にソイルプラントを設置し、県道舗装工事約10万 m2 を受注したのです。これらの工事も君津工事で担当しました。君津工事着工から3年後のことでした。

4.ヘドロとの闘い

君津製鉄所の位置は東京湾内の君津海岸で、敷地造成は東京湾のヘドロをポンプ船で埋め立てたものがベースになっており、不足分を後背地の山を切り崩した山砂で補充するものです。製鉄所が稼動した段階になると鉱石などの運搬船が接岸するための航路や泊地の水深は12m程度が必要になります。浚渫工法は、その航路や泊地となる部分を前もってポンプ船により掘り下げ、そのヘドロをパイプ導管で水と共に流して運ぶ工法です。この工法の特徴は、導管の端末で、砂混じり海水を排出する排砂管口付近は、粒子の粗い砂が沈殿し支持力の強い造成地盤となりますが、排砂管口から遠い場所は、ヘドロ分(極細粒分)が流れてゆくので、管口から遠くなる程ヘドロだけになることです。当然のことながら圧延機などの重要な機械設備の設置される位置は強い地盤が必要なので、排砂管口をその位置に設置することになります。この位置は工場建屋のほぼ中央になり、逆に結果的として工場と工場の間の本道路となる部分はヘドロ層になると云う訳です。余談ですが、住友金属工業鹿島製鉄所も同時期に建設工事が進行していましたが、太平洋岸であるためヘドロは無く良質の砂地盤であり道路工事は非常に順調に出来たとのことでした。

この東京湾のヘドロについて不思議なことに気が付いたので述べておきます。それは、先ほど述べた排砂管口の位置に溜まった砂が、後背地の山を切り崩した山砂と同じものらしいと云うこと、色も同じでした。また、この山砂とヘドロを混合すると俗に云う関東ロームに近い土質になりそうだと云うこと。山砂にはときに貝殻が見られることがありました。これらのことから想像してみると、地球創造の時期に火山活動によって降り積もった火山灰で、陸に積もったものが関東ロームになり、そして、水面(東京湾?)に降ったものは砂(Sand)、シルト(Silt)、粘土(Clay)に分離され、ヘドロ( Silt、Clay) 分は海底のよどみとなって溜まったものではないかということです。砂分には貝(アサリなど?)も生息しており、この砂分がある時期に隆起して丘になり山砂となって現在も存在しているのではないかと考えたのです。これらはあくまでも私の想像ですが、当たらずとも遠からずではないかと今でも思っています。

舗装工事の最初の工程は路床工です。この施工は後背地の山を切り崩した山砂でヘドロを置き換える工法です。これが意外に難工事でした。素堀工法でヘドロを取り除くと周りから崩れてくる、それを再度取り除くと云う繰り返し作業でもありました。山砂をブルドーザで押し込むと山砂が下へ潜り込んでヘドロが上に押し上げられて反転してしまうなど苦労の連続でした。ヘドロの面にベニヤ板を張り詰め番線で括り、その上に山砂を30cm 程度そっと載せて押さえ込んでから、ブルドーザで山砂を押し込む方法も試みました。本道路20万m2の半分以上は深さ 1~ 2mの入れ換えを行いましたが、取付け道路も含めヘドロの搬出量約15万m 3をショベル・ダンプ方式で施工したことになります。入れ換えた山砂は初期段階では十分な強度の路床ではありませんが、時間の経過とともに落ち着いてくるようでした。これで路床ができればしめたものです。幸いだったのは、入れ換え用の山砂は別工事として発注されていた土工業者が無料で要求通りの量を運んできてくれたことです。また、ソイルセメント用山砂はできるだけ粗目の良質なものを運んできてくれ
ました。この作業も翌日の必要量を土工業者と綿密に打ち合わせる必要がありました。と云うのは、施工場所が数箇所あると敷地が広大で施工場所が分からなくなってしまうからです。

5.プラントの仮設

君津工事では、アスファルトプラント、ソイルプラント併せて3年間で7基のプラントを仮設しました。工事着工と同時に表層アスコンとアスベース用のアスファルトプラント2基(40屯バッチプラント、40屯コンテニュアスプラント)とソイルセメント用に100屯ドラムミキサー型ソイルプラントを仮設しました。工事は順調に滑り出しましたが、アスファルトプラントは故障が多くプラントマンは徹夜の修理に追われました。現在のプラントのように優れたものではなかったのです。

施工計画当初から心配していたことですが、生産量が追いつかず苦肉の策としてアスベース用砂利アスコンの野積みストックを行いました。板囲いをした広場にアスコンを積み上げシートをかけて保存する。その方式で、プラントが故障しない限り運転を続けるのです。3交代24時間運転の時期もありました。朝になるとこれをショベルでダンプに積み舗装するのです。品質的には特に問題は無かったと思っています。さらに、能力アップのため骨材の予備乾燥用60t/h ドライヤーの増設も行いました。今考えるとなんと無鉄砲なことをやったものだと感慨深いものがあります。しかし、このようにしてどうにか建設本部の要求に応えることが出来たのです。

上記の当初に建てたプラントは君津製鉄所本事務所予定地の前でした。全体の建設工事も暫時進み本事務所も出来上がると、製鉄所関係職員が本社や九州などから本事務所に転勤してきました。ここで問題が発生するのです。プラントに集塵装置が全く無くほこりの撒き散らしであったこと、また、製鉄所本事務所の前に汚い醜い設備があり、君津製鉄所のイメージダウンになる等の理由で移動するよう命じられたのです。そこで、指定された場所に100屯コンテニュアスプラントを仮設し、初期のプラント2基を解体しました。この代替プラントは前段で述べた中央高速道路府中舗装工事で使ったもので、愛着と不思議な縁のようなものを感じました。代替プラントが出来て1年ほど経過した時、今度は製鉄所のレイアウトの変更が生じたとのことで再度移動してほしいとの要請が来ました。そこでまた、別な場所に代替プラントとして120屯コンテニュアスプラントを建て、旧プラントを解体することになるのです。

第一期建設工事の終わり頃に、今後の営業展開も考慮して永続できるプラントを造ろうと云うことになり、国道127号線沿いに土地を購入しバッチ式の新プラントを建設することになりました。これが現在の南総合材工場になるのです。このような経過で君津工事では5基のアスファルトプラントを建てたことになります。これらのプラントで製造した合材量は表層アスコンと砂利アスコン合わせて約40万屯以上、そのうち砂利アスコンが3分の2程度であったと思います。

プラントの形式について追記します。一般的に定置式合材工場のように多品種のアスコンを製造する場合はバッチ式プラントが適していると云われています。しかし、少品種のアスコンを連続生産する君津工事のような場合には、コンテニュアス式プラントが適していることを改めて知りました。品質が均一でバラツキが無いこと、プラントの機械部分が簡素で故障の要因となる部品が少なく、結果として製造能力が高いことになるからです。蛇足になるかも知れませんが、中央高速道路府中舗装工事が長期供用性良好な舗装として日本道路公団総裁感謝状を頂いたのも、この100屯コンテニュアスプラントが一翼を担った面があるかも知れません。

6.施工体制、人員

プラントについてはすでに述べたとおりですが、当時の日鋪の施工機械保有台数は他社を圧倒しておりました。現在のようにリース・レンタル機械を専門に扱うリース・レンタル会社はありませんでした。一時期を捉えればフィニシャー3台、ローラ類20台、グレーダー5台、ショベル類10台、ブルドーザ5台、連絡車15台程度およびその他機械が稼動していました。機械の出入りは毎日のようにあったような気がします。舗装面積が大きい割に少面積の取付け道路の数も多く、これらが全面展開すると機械台数とオペレータ人員の確保が大変です。特に大宮モータープールの存在とその機動力に支えられたことを忘れることはできません。施工作業員の出入りも激しく、最盛期には宿泊作業員、下請作業員併せ400人程度にはなっていたと思います。従事された社員の出入りも激しく延べ200人以上にはなりました。瞬間的には63人もいた時期もありました。昭和43年の従業員名簿では従業員総数1947名となっているので社員の10人に一人は君津工事に従事したことになります。また、新入社員の現場実習の場所にもなりました。さらに、本社、支店の関係者および視察にこられた方々を含めると社員の20% 近い方々が君津工事の状況をご覧になったことになるでしょう。このように多くの方々が関係しておられたので、文章中に個人名を入れたかったのですが、漏れたりした場合はかえって失礼になるので割愛させて頂いたことお許し願いたく思います。ほんとうに多くの方々から教えられご協力頂いたことを感謝致しております。

7.終わりに

今まで述べたように君津工事は工事規模的に大工事ではありましたが、当時は高速道路建設時代に突入しており、社内の大勢がそちらの方を向いている傾向があり、君津工事も一民間工事の扱いだったように思います。しかし、採算の面ではそれなりの成果があり、存在感はあったと自負しております。昭和43年から本格的工事に突入した君津工事ではありますが、その時入社された方々は定年を迎える時期になっていると思います。と云うことはこの君津工事も昔の物語になる訳で、この時期に忘れられないよう書き残す機会を与えられたことをたいへん嬉しく思っております。

君津製鉄所建設工事が全面展開している時期には、数多くの業者が入り乱れ、多くの人員および機材を投入し、複雑で錯綜した現場でありましたが、大事故・重大事故もなく完成をみたことは本当に有難いことだと感謝致しております。さらに、当時の日鋪マンのやる気、使命感、「技術の日鋪」のレベルの高さ等に支えられ、

31歳という若輩の私を支えて下さった工事従事者および関係された方々の皆様に改めて御礼申し上げ、終わりと致します。

以上

2007 年 1 月 1 日 郡 司 保 雄 記